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第11回 宮の華酒造(宮古島市 伊良部島)

当記事は2018年2月28日にサイトクローズした「美ら島物語」で公開していた記事です。

 

 

 

宮の華 誕生


 

伊良部島といえば多くの人のイメージではカツオとマグロの遠洋漁業の島。下地島パイロット訓練飛行場の島(2015年取材当時)。

 

泡盛の酒造所・宮の華が宮古島でも広 く知られるようになったのはまだ40年くらいではないかと思う。
創業は今から68年前。1948年。

 

創業者は下地盛昆。城辺出身の盛昆は伊良部出身のメガと結婚して、平良に住んでいたが、メガの故郷である伊良部島に引っ越した。

 

 

 

 

伊良部島に来た当初は、台湾航路の乗組員になり、メガは雑貨屋「下地商店」を営んでいた。
その後、終戦になり仲間数人と酒屋を始めた。

 

その頃は、サトウキビも造り、黒砂糖も自分で造り、泡盛の原料もサトウキビだった。
米は貴重で高価なものだったので、泡盛に使うようになったのはずっとあとの話。

 

 

 

 

数人と始めた酒屋だったが、一人抜け二人抜けで結局盛昆一人が残った。
酒は造る量も少なく、量り売りの時代で島内で売る量しかなかった。

 

そのうち遠洋漁業で伊良部島の景気はどんどん良くなり、酒もよく売れるようになっていった。
子どもも次々生まれ、7人の子宝に恵まれた。(伊良部丸遭難事故で3人が亡くなった)

 

そして1948年、本格的に泡盛製造を始め「宮の華」酒造が誕生した。
その頃は4合瓶入りの泡盛のみを製造していた。

 

 

2代目・盛良へ


 

泡盛造りは順調で会社も安定しいた頃、平良にあった「中尾酒造(菊の露)」が(鹿児島の人だった)売りに出されることになった。
盛昆は中尾酒造を買収し、長男・潔が社長に就いたため宮の華は三男の盛良が2代目となった。(1979年)
盛良は職人気質で「いい酒を造る」ための努力を惜しまない人だった。すでに同じ伊良部島の洋子と結婚して4女に恵まれていた。

 

 

 

 

洋子は子育て、家事、酒屋の手伝いに追われるうちに酒造りも教わるようになった。
女性初の杜氏となり社員もほとんどが女性になっていった。
細かい心配りが必要な酒造りは女性に向いているという盛良の思いもあった。
伊良部島は産業も少なく、男たちは遠洋漁業に行くため、女性にとっても宮の華は打ってつけの職場だった。

 

盛良は品質向上にほんとに努力した人研究熱心でも あった。
1972年(日本復帰)には第11回全国酒類調味食品品評会で金賞を受賞した!
その後は県内の泡盛品評会での常連受賞者となり、宮の華の酒はだんだん知れ渡るようになっていった。

 

盛良はまたその頃誰も造ってなかった「もろみ酢」を独学で研究し完成させていた!
その後もろみ酢は泡盛業界に広がっていった。

 

 

 

 

3代目・さおりへ


 

盛良が60歳を過ぎた頃にとても不思議なことが起きた。
沖縄の古典芸能の舞踊の三大流派のひとつ、「紫の会」の創設者である島袋光裕氏(故人)が、 初代・盛昆のために(寄贈するために)書いたと思われる直筆の書が見つかった。(光裕氏は石扇翁(せきせんおう)という書家でもあった。

 

折しも光裕 氏の生誕100年記念誌発刊のため遺品を整理していた時に書が見つかり、装丁会社からの連絡で初めて盛昆と光裕氏の深い繋がりを知った。

 

三線で古典民謡を弾いていたが、まさかあんなにすごい人!と、みんな驚いた。
そこには格言とも思われる言葉が書かれていて、まだ2代目に就任していなかったが、2代目と書かれていたのにまた驚きだった。
その書はきれいに額装されて、宮の華の事務所に掲げられている。

 

 

 

盛良は60代の若さでこの世を去った。すでに平良で営業所を担当していた娘さおりは、父が病に倒れた時「私に跡を継がせてください」と頼んでいた。

 

おじいとおばあが作った酒屋を無くしたくなかったからという。
2005年、3代目就任。あの書をおじいの遺言のように感じ会社を経営していくための指針と感じている。
2005年社長に就任する時、父・盛良が新発売する予定だった最後の酒を「華翁(はなおきな)」と命名して、新発売した。

 

 

聡明な魂を求めて


 

3代目のさおりは、人の魂というものをとても大切にする。
泡盛を造ることとは・・、どんな会社であるべきか・・、とか本物とは何かとか・・、何かしらいつもおかしなこと(?)を考えている。

 

いつも真剣に向き合っている。それが「うでぃさんの酒」を生み出した。
(うでぃさん、とは喜ぶとか嬉しいという意味の沖縄方言)
熊本の米農家と契約し、「無農薬・無堆肥・無肥料」で栽培した「ひのひかり」を使用して泡盛を造った。

 

通常、泡盛の原料枚として使われているタイ米が嫌いなわけではない。
生産者の顔が見えてより安全でより安心なもので造りたい!
コストは少し高くなってもそんな泡盛があってもいいと思う、と話す。
書に書かれて いる言葉を実践、行動していくことが、私の仕事であり役割だという。
泡盛業界にこういう経営者がいることが嬉しい。

 

人が喜ぶ仕事をしたいという。それはまた会社のスタッフが喜んで働く会社を作ることでもある。
小さい頃から勉強するより工場で遊ぶことが好きだったと笑う。
社長以下、従業員の8割が女性の楽しい酒造所だ。
現在もお母さんの洋子さんが杜氏を務めている。お母さんの存在は大きい。

 

 

 

 

 

伊良部大橋開通


 

2015年1月、伊良部大橋が開通した。
遠洋漁業が盛んな時代には男たちは遠くパラオあたりまで漁にでかけて帰ってくるのは年に一度だけ!
その間は女性たちが島を守っていた。

 

島は独自の言語を持ち独特の芸能文化を持っていて有名なのは「伊良部トゥガニ」。
現在でも歌い継がれていて毎年9月にはトウガニ大会が開かれ満月の下で切々と歌う恋歌は何ともロマンティックです。
平良に住む恋人に会えない切なさを歌っていますが、橋が架かって自由に行き来できる時代になっても、歌の魅力は衰えることはありません。

 

いつ、誰が作ったのかもわからないのに約200年もの間脈々と歌い継がれて いるのです。
そんな伊良部トゥガニのように、いつまでも人々に愛され続ける酒屋であってほしいものです。

 

宮の華という、酒屋にしては、少しオシャレすぎる?名前は、宮古の華になってほしいという、初代の魂です。
営業車には「人の想いと心をつなぐ架け橋になりたい」と書かれていますが、これは橋が出来る何年も前に作ったもの。

*おじいの三線は、創業55周年の時に盛良氏が専門に頼んで、きれいに張り替えてそれをトゥガニ大会の優勝者が演奏して、「伊良部トゥガニのCDを作り無料配布した。
仕事には厳しい人だった。仕事はしっかり若い山原に引き継がれている。
伊良部大橋を渡って宮の華まで寄り道してみたらいいと思います!!

 

 

 

 

(2015.8.31 掲載)

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