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入波平酒造所(与那国島)レポート

国境の島の酒造所へ

 

前回の国泉泡盛につづき、今回も那覇空港から直行便で一路与那国島へ。島で一番新しい酒造所「入波平(いりなみひら)酒造所」を訪ねました。

 

 

創業は1989年、今年創業30年になります。県内の46酒造所の中でも一番新しい酒造所です。創業者は入波平浩伸氏でもともとは「国泉酒造所」で酒造りをしていましたが「花酒で古酒を造りたい!」という思いから独立して酒造所をたちあげました。花酒で古酒を造りたい!というきっかけは琉球王国時代に「国王に花酒の古酒を献上したところ国王が絶賛した」というのを知ったからとか!

 

琉球王国時代の酒造りは「王府の管理下」にあり職人も王府が認定し首里の3か所でのみ製造されていました。一説には王府には熟成100年以上の泡盛があったと言われています。中国からの数百名の使節団が2,3か月滞在して毎晩宴会が開かれても十分あったと言われてますから、いかに大量の泡盛が製造されていたか・・です。琉球王朝が崩壊し、戦争で首里が壊滅しなければ沖縄には100年、200年の古酒が存在していたのに!私たちも飲めたのに!と思うと残念です。古くなればなるほど「美味しい酒になる泡盛」、度数が高いほどおいしい古酒ができるとも言います。もちろん新酒でいい酒じゃなければいくら寝かしてもいい古酒にはならない!と言います。入波平氏は職人としてそのことを十分認識していたのでしょう。

 

「舞富名」の誕生

 

 

初めて出来たのが「舞富名」まいふなです。漢字は当て字で島の言葉で「孝行者」という意味だそうです。(島では人を表す言葉なのでまいふなーと伸ばすらしい)まいふなは「ありがとう」という意味でも使われます。この酒を飲んでくれた人が心優しくなり人を幸せにしてくれるように!と願って命名したそうです。造った酒はまず1年ほどステンレスで寝かせて、それから甕に移して更に1年間寝かせた酒を加水して度数調整をして、新酒の30度、40度の酒となって販売したそうですから、惜しみなく手間暇かけて酒造りをしてことがわかります。そして酒造りは2代目の伸佳氏に引き継がれました。先代の思いそのままに「花酒と古酒にこだわった」酒造りをし、会社の名前より舞富名のほうが認知度をあげていきました。

10年前、酒造所も空港の近くの広い敷地に移転し順調に酒造りをしていましたが数年前、病に倒れました。現在は弟の信勇氏が社長の代わりを務めています。確かに以前のような酒造りはできなくなっていますが「舞富名」は健在です!特に花酒の人気が衰えることはないようです。泡盛の出荷が減少している中でも与那国の花酒は人気です。

 取材にお邪魔した日は社長が急な那覇出張だったため、杜氏の平良毅さんにお話を伺いました。平良さんは那覇の出身ですが物産展で社長に出会い、口説かれて酒造りをやるため(笑ってますが)家族を残して与那国島にやってきたそうです。取材の日は出荷作業に追われていたのでお仕事の邪魔にならないようにのんびりの取材でした。

 

島の女性二人がお手伝いにきていました。作業も手張りなのでそれはそれは大変ですが、一息ついたところで私も手張りに挑戦です!簡単なようでなかなか難しいですよ。1本ならいいのですがみんな同じ場所に貼らなければならないのでかなりの作業だと思います。現在は舞富名と「ゆのん」が主力だそうです。ちなみに「ゆのん」とは石垣島から見た与那国島のことを指す言葉だと教えてくれました。

 

 

 

 

 廃業の噂もありましたが大丈夫!島の人の協力もあり元気で泡盛を造っています。移転したときは空港の大きな通りから入れるように橋がありましたが大きな台風で壊れてしまいました。空港からわずか5分の場所にありますが現在は工場見学はお休みしています。花酒の製造・販売が許されている国境の島・与那国島で「花酒で古酒を造りたい」という創業者の想いは変わることはありません。43度の古酒もすごくやわらかでのど越しもよく美味しく飲めますのでぜひ味わってみてください。60度の古酒はなかなか手に入らないと思います。ラベルの手張りをしていたのは前泊ゆきさんと浦崎かおりさんです。みなさま、お仕事の忙しい中、お付き合いくださりありがとうございました。

ライターしもじけいこ

 

 

▼過去の記事はこちらから:「泡盛天使の酒造所めぐり」

 

ライター しもじけいこ

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