第17回 神谷酒造(沖縄本島八重瀬町)
当記事は2018年2月28日にサイトクローズした「美ら島物語」で公開していた記事です。
南の光になるように
那覇空港から南部にむかって1時間弱。八重瀬町があります。
2006年に東風平町と近隣町村が合併して誕生した町です。
神谷酒造は合併前の東風平という所で1949年、神谷俊彦によって誕生しました。
終戦からわずか4年後です。沖縄は日本から切り離されアメリカの統治下にあり泡盛造りもきびしく管理されていましたが、泡盛造りがアメリカ民政府の管理から民間に開放された時代に神谷俊彦は役場職員をやめ泡盛造りを始めます。
そして誕生したのが「南光」です。
この名前には戦後の復興のなかで「南(南部)の光になるように」という希望が込められています。
南光がそんな熱い想いで命名されたことを初めて知りました。
現在の八重瀬公園近くには2004年に移転。
今年創業67年。3代目の神谷雅樹さんを訪ねました。
創業の時代は沖縄の泡盛がきびしい時代。
そんな時代にもひたすら南部の復興を願って酒造りをやめませんでした。
1985年には息子・正彦が2代目に就任します。
泡盛業界もすこしずつ活気を取り戻していきました。
そして誕生したのが「南光」です。
この名前には戦後の復興のなかで「南の光になるように」という希望が込められています。
南光がそんな熱い想いで命名されたことを初めて知りました。
現在の八重瀬公園近くには2004年に移転。
今年創業67年。3代目の神谷雅樹さんを訪ねました。
創業の時代は沖縄の泡盛がきびしい時代。
そんな時代にもひたすら南部の復興を願って酒造りをやめませんでした。
1985年には息子・正彦が2代目に就任します。
泡盛業界もすこしずつ活気を活気を取り戻していきました。
現在の八重瀬公園近くには2004年に移転。
今年創業67年。3代目の神谷雅樹さんを訪ねました。
創業の時代は沖縄の泡盛がきびしい時代。
そんな時代にもひたすら南部の復興を願って酒造りをやめませんでした。
1985年には息子・正彦が2代目に就任します。
泡盛業界もすこしずつ活気を活気を取り戻していきました。
息子である現在の社長、3代目の雅樹は大学を出て県内のパン製造会社に就職していましたが、会社を辞め家業を継ぐことを決心します。
そんな中、突然正彦が病に倒れてしまいます。
4月に入社して7月に「父が倒れた」わけですから、それはもう酒屋の息子としては覚悟するしかなかったといいます。
雅樹23歳。
会社を辞め酒屋を継ぐ決心をした雅樹でしたが工場には父もいないわけで酒造りをする人も教える人もいなくて窮地におかれます。
蔵にはわずかな在庫しかなく、早く酒を造らなければ、数か月後には空っぽになってしまう状況だったすです。
雅樹は一大決心をして、近隣の酒造所に行き、事情を話し、酒造りを教えてくれるよう頼みます。
その酒造所の人は、わざわざ神谷酒造まで出向いてくれて、丁寧に教えてくれたそうです。
また別の酒造所からは「種もみ」も分けてもらい、いろんなことを教わり学びながら、ようやく自分の酒が造れるようになったそうです。
「初めて自分で造った酒はどうでしたか?」と聞いてみたら「まずかった!」
今となっては懐かしい笑い話ですが、父が倒れサポートしてくれる人も誰もいなくて、どれだけ心細い思いをしたか・・・
親身になって助けて支えてくれた近隣の酒造所の方には心から感謝している。
業界の助け合い・・いいですね。
今でも親しい交流をしているそうです。酒屋に生まれたからといって簡単に酒造りなんてできません。
雅樹さんは、他の酒造所方のアドバイスも受けながら研究を重ね、徐々に神谷酒造ならではの酒造りができるようになり、泡盛鑑評会で6度も優等賞を受賞しています。
八重瀬街が誇る酒造所に成長しています。
創業者の神谷俊彦の願いだった「南の光になるように」という希望は、しっかり孫の3代目雅樹に引き継がれていると感じました。
昔ながらの製法にこだわり、なるべく手間暇をかけて造る。
一年間に造る量は大手の10分の1くらいかも知れない。
でも「何事にも忠実であれ」という信念で酒を造る。
病に倒れた父も今では元気を取り戻し工場で一緒に酒造りをしている。
酒は造る人の心もわかるのではないか・・そんな気がしてくる。
いつか紅芋で酒を造ってみたいとか!神谷酒造の「紅芋焼酎」が飲める日が来るかも!誠実さが伝わる蔵です。
辛い苦しい時代を乗り越えて家族で造る神谷の酒はきっと人の心を癒してくれる力を持ってる。
訪ねた時は4月の下旬だったので、八重瀬公園の桜はすっかり葉桜になってました。
今度は桜の季節にぜひ訪ねてみたい。
神谷酒造
神谷酒造
住所:沖縄県島尻郡八重瀬町字世名城510-3
電話:098-998-2108 土・日、祝祭日休
(2016.5.30 掲載)