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第12回 崎山酒造廠(沖縄本島金武町)

当記事は2018年2月28日にサイトクローズした「美ら島物語」で公開していた記事です。

 

 

 

県内に47ある泡盛メーカーで「酒造所」ではなく「酒造廠」という珍しい名前を使っているのはここだけ。

創業以来ずっと変える事なく廠を継承している。

 

 

 

 

「廠」というのは、泡盛製造が米軍施政権下の民政府管轄の時代に「許可」された酒造所の証明なんだそうだ。

 

官営が昭和24年に解かれ民営になったあとも「廠」を使い続けてきたのは「沖縄の泡盛の歴史そのものだから」忘れないためだとい う。

 

金武町伊芸にある崎山酒造廠で専務の崎山淳子さんにお話を伺った。

 

 

 

 

 

崎山酒造廠の歴史


 

創業は今から110年前、明治38年、首里三箇の一つ、赤田で崎山オトによって始まった。
オトは23歳で崎山起心と結婚。実家が酒屋だったオトは、知識を活かし酒造りを始める。
病弱だった夫に代わり3人の子育てをしながら実妹とともに酒造りをしていた。
夫が35歳で他界。その後、酒屋を妹に譲り、赤田の「友寄酒造」を買い取る。まだその頃は「崎山酒造所」という名前はなかったようだ。

 

 

 

酒が量り売りの時代に、名前はあまり必要ではなく、「崎山の酒」で十分通用していた時代だった。
明治という時代の中にあって、「オト」は当時としては、珍しい自立した思想を持っていた女性だったようだ。
そうは いっても女手一つで3人の子育てをしながら酒を造るのは、並大抵の労働ではなかったことは、想像に難くない。

 

 

「松藤」の誕生


 

起心とオトの長男・起松が酒屋の2代目となった。王府の系統を持つ藤子と結婚。
藤子はオトからコウジサー(杜氏)としての教えを受け夫婦で酒造 所を切り盛りした。
政治家になり多忙になった夫を支えた。その頃には「崎山酒造所」となっていたようだ。

 

順風満帆の暮らしの中、時代は戦争へと向 かっていた。
戦争で首里の酒造所は壊滅状態になり、戦後琉球は米軍の施政権下に置かれ、酒屋も米軍の民政府の管理下に置かれた。

 

 

 

昭和21年、民政府は 5つの酒造所を首里以外の地に移した。そのうちの一つが金武町・伊芸区で「官営泡盛製造廠」だった。
起松はそこの工場長に任命された。
酒屋が破壊 され戦後の混乱期にあって伊芸への移転に選択の余地はなかった。
家族、職人すべて一緒の生活がはじまった。

 

恩納岳の伏水流が滔々と流れる自然豊か な土地での酒造りが始まった。
建物は米軍の払い下げ、原料は米軍からの物資で驚くのは「チョコレート」と「りんご」などの果物だったいう。
食料がなく 「ギブミー・チョコレート!」の時代に蔵にはチョコレートが山積みされていたというから、まさに時代の象徴でもあった。

 

 

 

昭和24年に官営が解かれ民営になり、崎山酒造廠も個人経営の酒屋となった。
今も工場の入り口は当時のまま。歴史を忍ばせる。

昭和に入り酒が瓶詰めで売られるようになり、ラベルが必要になった。
酒の名前も必要になり起松の「松」と妻藤子の「藤」で「松藤」が誕生した。

この命名は沖縄の喜劇王「小那覇ぶーてん」のアイデアともいわれて いる。 70年あまり前、妻の名を商品名にすることはスゴイ事だったと思う。松藤は崎山の歴史と誇りそのものになっている。

 

 

女性が支えた酒蔵


 

起松と藤子の長男・操が3代目となり昭和30年光子と結婚。

 

光子もまた藤子から杜氏になるための教えを受けた。
泡盛業界も苦難の時代になっていく。

 

泡盛の製造過程で出る、酒粕を餌に養豚も兼業しながら、それでも酒造りをやめなったのは、「オト」をはじめ父・母が苦労して支えてきた「蔵」を無くしてはいけないという強い思いがあったからだ。
家族以外に、従業員も住み込みでの暮らしは、日々の食事の支度だけでも大変だったそうだ。

 

 

80歳を超えた「光子」は、一線は退いたものの健在で、若い女性の杜氏の良き相談相手になってるそうだ。
崎山酒造廠は、恩納岳の伏流水が滔々と流れる場所にある。恩納岳は沖縄で唯一、楢の木が自生していて水は石灰岩ではなく、楢の根っこを流れてくるため、自然の軟水そのもの。
この自然の軟水こそが、崎山酒造廠の酒の美味しさの源でもある。

 

今年、110年を迎えるが、来年111年目で、節目を祝う予定だそうだ。

 

70数年前、首里から松林と田んぼが広がるこの地に来た時は、どんな気持ち だったんだろう・・・

 

 

 

引き継がれる想い


 

4代目社長は操と光子の長男、友章氏。
専務の淳子さんは、和章の妻で、結婚した時は市役所の職員だった。
和章は東京農大醸造学科を経て4代目となった。
淳子さんが結婚した時は、母・光子も現役だったため、仕事をやめて会社に入る必要はなかったという。ある日「そろそろ会社に入ったら?」という母の言葉で、覚悟したそうだ。

 

 

 

酒屋の跡取りと結婚した時からいつかは!という心構えはあったそうだ。
淳子さんは会社に入ると、光子の教えで工場で酒造りの工程を学んだ。
泡盛屋の女将になるべくしてなったような女性で、切れがよく聡明!
取材のときもテキパキと案内、説明してくれた。

 

素晴らしいのは、様々な商品開発もしていて、同じ発酵食品だから!と、沖縄の原料だけを使って、味噌造りを始めた。

 

 

 

 

沖縄薬膳ちゅら味噌!和食、洋食いろんな料理が楽し める味噌で全部で5種。
5種にあう献立も、淳子さんが考案したというからスゴイとしかいいようがない。
(私のおすすめは「バーニャカウダ」です。)

 

 

 

夫と ともに会社の経営もこなし、商品開発もし、営業にもでかけ、合間をぬってスタッフに手料理もふるまう。
光子さんに「あんたよくやるねえ!!」といわれ るそうだが、スタッフへのねぎらいなのだという。

 

大変じゃないですか?と聞くと、「崎山の女性たちがやってきたことですから!」と明るい。女将なんですねえ!!と思う。

 

今年、息子が会社に入り5代目となるべく「修行」を始めたと目を細める。

 

女性たちの頑張りで守ってきた蔵の歴史。 建物の天井にも、壁にも、柱にも、沖縄の激動の歴史とともに歩んできた歴史が詰まっている酒造廠。

淳子さんの夢は、社員の子どもたちや地域の子どもたちが将来、「崎山酒造廠で働きたい!」と思えるような会社にしていくことだそうだ。

 

ほんとに素敵な酒蔵です!ぜひ見学にでかけてください!きっと感動します。

 

 

 

余談


 

ラジオで泡盛の番組をやっていた頃に、取材先の泡盛居酒屋でご夫婦に出会いました。
あれから10年、やっと酒造廠に訪ねて再開することがで きました。覚えていてくださって嬉しかったです。
もっともっと素敵に輝く酒屋の女将になってください!
同じ原料で造ってもみんな違う酒。蔵の数だけ家族が歩んできた歴史があり物語があり感動があります。

宮古島のアカバナ(ハイビスカス)を使った、世界初のフラワースパークリングも誕生しました!
ぜひお試し ください。

 

 

 

(2015.10.20 掲載)

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