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第3回 米島酒造(久米島)

当記事は2018年2月28日にサイトクローズした「美ら島物語」で公開していた記事です。

 

 

 

久米島へ


 

那覇空港からJTA便で約30分。人口約8300人余が暮らす久米島。
2つある酒造所の一つ、「米島酒造」を訪ねた。

 

 

 

沖縄の有人島のなかでは、宮古島の次に大きな島で、車えびが有名。
更に有名なのが、「久米島紬」。
日本の絣織物の原点ともいわれる久米島紬は、草木染のしなやかな絹の織物で、島の女性たちによって現在に受け継がれている。
プロ野球「楽天」のキャンプ地でも有名で、シーズンには多くのファンで賑う。
海洋深層水の「バーデハウス」にも全国から多くの人が訪れる。

 

そして世界一美しい!といわれるハテの浜!!
久米島蛍も人気。観光客は年間約8万人!人口8千人余の島ですから約10倍!小さな島の良さが伝わるのどかな島だ。

 

久米島の名前の由来は色々で、久米という地名は日本全国にあり、米に関係する古い地名といわれている。
クミと読まれていて続・日本書記には「球美」と記載されている。
中国では久米がクミになり、沖縄では中国の影響で早くからクミと読まれていたが、ヤマト風にクメジマと呼ばれるようになった。
民俗学者の伊波普猷は、「八重山からの帰り、船から見た久米島が、海亀の姿に似ていたと感じ、島の形からがついた名前ではないか?」、という仮説もたてているが、定かではない。
いずれにしても、水が豊富で地質がよく、米の栽培に適した島は、「献上米」の栽培に指定されていて、米の植え付けを担当する女性の「早乙女」集団も実在していた。
王朝時代には、中国への「進貢船」の中継地としての役割を担っていたことから、豊かな島であったと思われる。

 

水と米の豊かな島で1948年3月、米島酒造は誕生した。
今年で66年。
4代目となる工場長の田場俊之さんに話を聞いた。

 

 

酒造りへの想い


 

俊之さんの曾おじいさんにあたる田場良徳さんは、当時役場の収入役だったが、1948年に仲間7人とともに「合資会社・米島蒸留所」を創設した。
1962年には経営危機で6人が脱退。
良徳さん一人になったため名前を「米島酒造」に変更。
当時、島には4つの酒造所があったというから、経営は大変だったと想像できる。

 

きびしい経営を強いられる中、泡盛を作るための米は農家から買い求めていた。
時代の変化で米からサトウキビに変わり、経営は益々きびしくなっていったが、2代目の庄次郎さんは先代の意志を守るため必死だった。

 

 

 

 

1986年には、弘さんが27歳で3代目に就任。
これにはきびしい現実があった。
あるとき、酒の味を変えたら、島の人たちから「あんたのところの酒は美味しくないから飲まない!」と言われ、それから本当に酒が売れなくなった。
その後、もとの味に戻したが、信頼を取り戻すのには、20年もかかってしまったという。

 

島の人に飲んでもらうため、島の行事の際に寄贈したり、とにかく「飲んでもらいたい!」一心だった。
たくさんの時間はかかったけれど、「酒造りの厳しさも原点も学んだ」。
このことが米島酒造の「美味しいといわれる酒を造る」という教訓になっている。

 

 

 

4代目の挑戦


 

4代目の工場長、俊之さんは34歳。
爽やかな頑張り家で努力家!「うちのような小さな酒屋は大きな酒屋の真似もできないし、競争もできないので新酒で美味しい酒を造りたい!」という。
実際、新酒でも1年寝かして出荷するという愛情のかけかたである。
もちろん古酒も寝かしているが、販売するのはわずか。
毎年、4合瓶で1000本前後。
その年の出来具合で本数は決まるといい、味もまた年毎に変わっているというから泡盛は面白い。

 

 

 

すべてのボトルにシリアルナンバーがついていて、今では常客で予約いっぱいの状態という嬉しい現実。
43度の古酒に至っては月に100本のみ!
全社員6人が、心をこめて造っている。
量が限られているため、8割が島内で消費されるので、沖縄本島などでも手に入れるのはなかなか難しい。
島に行って買う!行かないと買えない!こんな酒家があるのが何となく嬉しい。

 

俊之さんは「醸造学とか専門の勉強をしてないので、同業の先輩たちからいろいろ教えてもらっています!という。
酒造りを商売としてだけではなく、島に貢献できる存在として考えたい!という。
みんなと一緒に、久米島のためになることは何かできないか?という思いから、異業種の仲間と一緒に「久米島海を守る会」を立ち上げた。
海岸のゴミ拾いからオニヒトデ駆除など、さんご礁の保全活動、休眠の畑をかつようして棚田再生事業にも取り組み玄米も育てる。
子どもや親も一緒に、稲の苗を造り田植えをしたりと、こどもたちに美しい久米島を残していくことに情熱を注ぐ。
米島酒造の売り上げの一部も、守る会に寄贈している。

 

 

 

 

俊之さんはいう。
「僕は次男ですがいつかボクが酒屋を継いでいくんだろうなあ・・という予感のようなものがあった。」酒造りは面白い。
実際、創業者のひいおじいさんも2男で、米島酒造は2男が継ぐのが伝統??ではないにしても、偶然なのか必然か。

 

「小さな島で小さな酒屋だけど島に貢献できるのは何か。
それを見つけてできることをやって行きたい!」
大きな会社がマネのできない、小さな酒屋があってもいい。大きいからいいとは限らない!
何でもそう・・惜しみなく愛情を注ぎ育てる!そういう大切なことを教えてもらった気がします。
ちなみに俊之さんのひいおばあちゃんの妹?は、早乙女のメンバーだったとか!(現在資料を探していますがまだ見つかりません)

 

 

昔は道路のここまで海でしたよ


 

酒造所の看板の前で、弘さんがはなしてくれました。
緑いっぱいの酒造所は、分厚い板1枚に手書きされた小さな看板で、木々の葉に隠れてひっそりと掲げられています。
ロゴマークは、久米島の蛍をモチーフにしていて、蛍が舞う姿と止まっている姿が時の流れをあらわし、静と動が新酒と古酒をあらわしているそうです。

 

 

 

販売している酒のアイテムは久米島と、美ら蛍、限定販売の古酒のみ。
25度で美味しい新酒を造りたい!という俊之さんの挑戦は酒造りだけでなく久米島の将来、未来、希望へと続きます。

 

お昼から始まった取材は、美味しいいくつものお酒を飲んでいるうちに、すっかり夕暮れてしまいました。
取材中、物静かだった弘さんでしたが、夜、居酒屋での打ち上げの場では、ものすごく賑やかで、楽しい久米島の夜は更けて行きました。

 

 

 

ありがとうございました!久米島に行かれる際はぜひ訪ねてください。
見学は事前の申し込みが必要です!

 

 

付録・久米島と宮古島の意外な関係


 

宮古島に「船立うたき」という拝所があります。
そこには久米島の按司の娘が祭られています。

昔、霊力の強い娘がいたが兄嫁に随分いじめられて島流しになり、哀れに思った兄も一緒に島をでますが、途中で嵐にあい船は宮古島に漂着します。
二人は水汲みをしたりしながら暮らしていました。
妹は役人に見初められ結婚。9人の男子を産みました。
子どもたちが成長し、祖父母に会うため久米島へ。

お土産に鉄を持ってきた兄は、それで鎌やヘラなどの農具を造り、農家にあげたそうです。
おかげで農作業は効率もとくなり随分助けられました。
久米島から来た兄妹のおかげで、宮古の農民がすくわれたということで、神として祭られています。

あまり交流のない島と島ですが歴史では意外にも深いつながりがあります。
いつか機会があれば、兄妹の末裔も探してみたいと思います。

 

 

 

(2014.11.20 掲載)

 

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