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国泉泡盛(与那国島)レポート 

日本最西端の島の酒造所へ

 

あまり泡盛に詳しくない、あるいは呑まない人でも「与那国島のどなん」という名前は一度くらいは耳にしていると思います。それくらい知名度としてはかなり高いんだろうと思います。60度の酒って飲めるの??アルコール??いえいえれっきとしたお酒ですが、実は泡盛とは言いません!正式には原料用アルコールでスピリッツです。通称は花酒と呼ばれています。泡盛を製造する際に出来る最初の「初垂れ」なのです。ビールで言えば一番搾りという感じです。なのですごい稀少価値があります。この60度の酒の製造・販売が国境の島・与那国島だけに許されています。島にある3つの酒造所の一つ国泉酒造所を訪ね3代目の大嵩長史さんにお話を伺いました。

 

 

与那国島に多く自生するクバの葉でボトルが巻かれているすごく個性的な酒が「どなん」です。国泉酒造所は今年創業60年を向かえます。戦前、小浜島から出稼ぎに来ていた曽祖父が見初められて婿養子になったのが家族のルーツだそうです。1958年、大嵩・金城・我那覇の3氏で合名会社としてスタートしましたがのちに大嵩氏個人に引き継がれました。長史さんの父は公務員だったため酒造所を継ぐことは出来ませんでしたので酒造所は祖母の手で守られてきました。昔は酒造りは女性たちの仕事でもあったわけです。高校の無い島では中学を卒業するとほとんどが島を離れます。長史さんも石垣島の高校に進学し九州の大学に進学。酒造所を継ぐのが自分の義務、責任だと自覚していたと言います。与那国島に帰り酒造所を継ぐことに何の迷いもなかったそうです。48歳の3代目は気負いもなく迷いもなく爽やかな笑顔を絶やさない。とは言っても離島のさらに離島。航路と琉球エアーコミューターが那覇と石垣島から就航してるものの泡盛の出荷は大変です。運賃の負担は大きいと話す。

 

 

ここはもっと離島の酒造所への公的なサポートなど配慮があってもいいのではないか・・と思う。与那国島から那覇を経由して首都圏での営業は考えても大変ですが、数年前から与那国島独自で首都圏で与那国フェスタを開催しており取材の後、数日後には横浜のららぽーとに行きます!と言う事でした。近年は海底洞窟の発見などで観光客もかなり増えて世界中からダイバーが来島しメッカになっている。以前は作家の立松和平氏がサトウキビの援農隊を組織して若者が来ていた時期もあったが今はないのも寂しい気もする。沖縄のどの島にも共通している高齢化と過疎。その上、泡盛離れで出荷数も下がり続けている現実もあるものの「どなん60度」は人気で在庫切れが続く。嬉しいことなのですが何せ製造量が少ないのだから仕方がない、と笑う。最近はクバを巻く職人も減っているとの事ですから色々課題も出てきたという。時代とともにいろんなものやことが変化するのもまた世の常、人の常と思えばこれからの泡盛の未来を考えるのも自然な流れでいいのではないでしょうか。

 

 

そもそも、なぜ与那国島だけに60度の花酒の製造が許されたんでしょうか?何と昔は風葬や土葬の時代。洗骨は女性たちの仕事だった。酒造りをしていた女性達が70度や80度の酒で洗骨していたため、神聖な儀式に使われてきたという事で60度の製造が認められたという。
酒造り一つにしても島の文化や歴史が大きく関わっているのを知ると泡盛の感じ方もまた少しは違ってくるのではないでしょうか。それぞれの蔵にそれぞれの物語があり歴史があるのです。泡盛を手に取る時、そんな事を思い出してください。きっと美味しい!と感じることが出来るはずです。長史さんはこれから古酒にこだわった酒造りをして行くそうです!どなんの古酒きっと素晴らしい味になります。長い時間の取材にお付き合いくださりありがとうございました。

 

 

 

ちょっと知恵袋

 

どなんの意味は諸説あって台湾との海峡を荒波を越えて行くのが困難な「渡難」というのが何となく納得する感じがしてましたが全然間違いだったことがわかりました。どなんは与那国島を指す島くとうばの「どに」が語源だと初めて知りました。ゆのん、とも呼ばれていたそうです。山がそびえ、晴れた日には台湾島も見えるくらいの距離なので昔は密貿易で財を成した人もいたとか。かなりミステリアスな島です。現場でしか判らないことがいっぱいありますね。山があり水も豊かな島は昔に比べると米農家は減少しましたが今でも島のあちこちに水田が見られます。馬が多いのがびっくりです。ぜひお訪ねください。

 

ライター下地恵子

 

 

▼過去の記事はこちらから:「泡盛天使の酒造所めぐり」

 

 

 

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