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第4回 山川酒造(本部)

当記事は2018年2月28日にサイトクローズした「美ら島物語」で公開していた記事です。

 

 

山川酒造の誕生


 

夏の日差しがまだまだ眩い季節に沖縄本島北部(通称やんばる)、本部町にある山川酒造を訪ねました。
本部八重岳を望み、満名川のほとりにある蔵は、数ある酒造所の中で私の最も好きな蔵です。

 

好きなというより尊敬と言ったほうが正しいのかも知れません。
ラジオ番組での取材以来ですから数年ぶりです。

 

3代目社長の山川宗克さんが変わらない静かな笑顔で迎えてくれました。
本部町は人口が1万3千人くくらいですが年間の観光客は300万人というから驚きます。美ら海水族館と大型リゾートホテル、おしゃれなカフェが立ち並ぶ観光地です。

 

 

 

「そばの町」宣言の町というのがちょっと意外でしたが、人気のそば屋の前にはすごくたくさんの人が行列を作っていましたから、いかに力を入れて取り組んでいるかがよくわかり ます。

 

沖縄が日本に復帰する記念イベントとして開催された「沖縄海洋博覧会」の後はすっかり寂れてましたが、奇跡的にリゾート地として再生、飛躍した町です。
緑豊かな自然、豊富な水に恵まれたこの地で山川酒造は誕生しました。

 

 

 

創業は1946年、創業者の山川宗道は、ペルーに移民として渡っていた人で、ペルーで発酵関係の仕事をしていたようだという。沖縄に帰ってきて本部で泡盛造りを始めた時は「やんばるで酒が造れるわけがない」と馬鹿にされて「何が何でも造って見せよう」と一代奮起したようです。

 

琉球王朝時代には、中国からの大勢の役人が半年以上も滞在する際にも、泡盛が限りなく提供されていました。
泡盛は王朝管理で首里の3箇でしか製造が許されていませんでした。

 

王朝が崩壊して戦争で廃墟になった首里は貴重な泡盛もすべて無くなってしまいましたが、たった1箇所の蔵の中にあった「にくぶく」(蒸したお米に被せるむしろ)から黒麹菌が発見されて泡盛造りが再会されました。まさに奇跡です。

 

戦後、酒造りは民営化され、地域ごとに造り酒屋ができていきました。

 

 

創業者の信念


 

ペルーから帰ってきた創業者の宗道は発酵の知識はあったものの、実際に泡盛を作ったことはなかったらしい。
ある時、首里から「当銘さんという一人の女性がやってきて酒造りを教えていったという。
おそらく首里のどこかの酒屋で杜氏(昔は女性もいた)をしていた人ではないかという。
数ヶ月間山川に居たあと引き上げていったそうで、その後は山川との交流も途絶えていたそうです。

 

ある時、現在の社長が新聞の告別式のページを見たとき、直感で「この人なんじゃないか・・」と思い、親族の方と連絡をとってみたら何とあの時の当銘さんその人だった!
告別式に行き、花も手向けることができてよかったという。こんなこともあるんだ・・・奇跡だと笑う。
女性のおかげで、山川酒造は本格的な泡盛を造るようになっていった。

 

 

 

お米で酒を造るようになったのは、戦後で本部だけでも4箇所あったそうです。お米と水が豊富な自然環境が泡盛造りに適していたからでしょう。まわりからは「一番先に山川が潰れるよ」といわれていたそうですが期待を?よそに、山川だけが生き残った!
おそらくどこの酒屋も経営はきびしく大変だった時代ですから、やめていくのは苦渋の選択だったと思います。戦後アメリカの統治下の沖縄は、ウイスキーが全盛時代でしたから、泡盛業界は大変な時代でした。山川でも養豚業の売り上げで酒造りを続けていたといいます。

 

創業者の宗道は「どんな時でも頑張って古酒を造れ。いずれ古酒の時代がやってくる」という強い信念を持っていた人だった。
今でも製造量の7割を古酒造りのために寝かしていて「古酒のやまがわ」といわれる所以でもあるのです。
日本名酒会は「やまがわ」ブランドを販売するくらい、業界からの信頼も厚いのです。(ラジオの番組取材でお世話になった東京の東條さんという酒屋の主人は名酒会のメンバーで山川の泡盛が大好きです)

 

 

2代目、そして3代目へ受け継がれる信念


 

2代目の宗秀は24歳で社長に就任。先代の信念のもとひたすら古酒を造り続けた。
小さな蔵は古酒を造らないと将来生きていけない!先代から受け継がれる信念はすごかったといいます。

 

 

泡盛が売れず大変な時代が長く続き沖縄は「復帰」を迎えます。この出来事が沖縄の人たちの心に思いもよらない転機をもたらしました。
折からの焼酎ブームと相成って「沖縄には泡盛があるじゃないか」!と、泡盛ブームが起き、酒屋もいろんな工夫を凝らした商品開発に乗り出しました。
次々新商品が生まれ、造れば造るほど売れた、泡盛景気に沸いていました。そんな時でも造った酒の7割を寝かす訳ですから、売り上げはなかなかあがりませんでした。

 

 

 

3代目の現社長、宗克は酒屋を継がず、沖縄サントリーの社員になっていました。
「何で売れるのに寝かすのか、どんどん売ればいいじゃないか」若い宗克は親に反発していました。
ある時、頑固な父から「口出ししないから会社を継いでくれないか」と言われて、口出ししないならいいかと、3代目に就任しました。

 

昭和40年頃から貯蔵用のタンクも買えるようになっていましたから、どんどん増やしていきました。
現在4千石を寝かしています。一番古い酒で47年酒!蔵の中で長い時を過ごしています。
先代は、琉球王国時代からの、泡盛という酒文化を残すのが役目だ、と強い想いを持っていました。戦争で焼けなければ沖縄に100年、いや、100年以上の泡盛もあったはずなのに・・・蒸留酒は寝かせば寝かすほどいい!

 

世界にたったひとつ、泡盛という素晴らしい文化があることを誇りに思っていたと思います。
初代から寝かし続け、1997100%古酒「かねやま30年古酒」が発売されました。
これには業界のみならず泡盛ファンが驚きました!
更に2004年「かねやま33年古酒」を、2006年に「35年古酒」を発売。1本5万円、10万円という泡盛が売れることに世の中が驚きました。
そして2007年には「かねやま40年「古酒」を発売。これは予約の段階ですでに完売!だったそうです。
山川酒造の、最初の酒の銘柄は「かねやま」。
¬括弧の中に山で、かねやまと読みます。現在は15年以上の酒だけに「かねやま」という名前を使用しています。

 

 

 

地域とともに


 

海洋博覧会の時はかねやまではなく「もっと沖縄らしい名前を!」ということで「珊瑚礁」を発売しました。
しばらくすると漢字が読めない人が多いという、販売店の人たちからの意見で、ひらがなの「さんご礁」も発売しました。
更に泡盛が始めての人や女性向けの商品として「さくらいちばん」を発売。
優しいピンク色の摺りガラスにラベルはピンクの満開の桜。これは友人であるホテルサンパレスの金城幸子さんの作品で押し花作家として有名な金城さんが作ってくれたもので、「いちばんさくら」の名付け親でもあるそうです。
冬になると避寒桜が咲き誇る本部町ですから、山川らしい名前です。

 

 

 

 

山川には「ゆうもどろの花」という銘柄の泡盛もあります。
んん?「あけもどろ」はあるけど「ゆうもどろ」って言葉あるんですか?と聞いたところ、これはあの有名な歌「芭蕉布」の作詞家、吉川先生が付けてくれたものです。と教えてくれました。
日本語に「ゆうもどろ」という言葉はありませんが本部港から見る夕日を見て、付けてくれたそうです。なのでラベルも本部の夕日です。
最近は商工会や観光協会、青年会議所などのメンバーと一緒に異業種交流を開催して、食や芸能なども披露しながら本部町の活性化につなげる活動もしています。
「ゆうもどろの花の宴」と名付けています。

 

 

 

100年古酒を夢みて


 

若い頃、親に反発していた3代目は今は「古酒」に徹底してこだわる社長になりました。
100
年古酒を造ること!
生きてるうちには飲めませんが、次の世代からまた次の世代へと酒が引き継がれていき、沖縄中に100年古酒が溢れる日が来ることを願っていいます。
そのために、一生懸命酒を寝かしています!と笑う。

 

 

 

決して派手な蔵ではない山川酒造は、誠実でおだやかそのもの。この蔵の酒は豊かな自然に抱かれてゆっくりと悠久の時を刻んでいく。いつか自分の田んぼで米を育てて泡盛を造りたい!
「未知との遭遇」を楽しみにしている宗克さん。
100
年古酒への挑戦はこれからも続きます。そのためにも平和じゃないといけない!
古酒は平和の象徴でもあるんです。
初代の遺言は3代目にしっかり受け継がれています。

 

 

 

取材のあと、美味しい古酒をたくさん飲ませて頂きました。
これから桜の咲く季節。本部の山々がうっすらと優しいピンク色に染まっていきます。ぜひ訪ねてください。

 

2014.12.22 掲載)

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